にかにかパラダイス

詩人、アーティストのni_kaが気の向くままにちぽちぽと。らららちぽちぽ。

夢を与える TOKIOの「男として」というセリフ

らららちぽちぽ。


綿矢りささんの『夢を与える』という小説は、国民的スターの美少女アイドルの悲哀を描いていたちぽな、そういえば。


「夢を与える」

アイドル兼国民的スターとは、人のセクシャルな欲望をくみとり、それを“夢”として、人に与えることで職業が成立している。だから、当然人のを壊してしまったら、職業が成立しなくなる。

世間の“お気持ち”に添いすぎて、山口達也さん以外のTOKIOメンバーが、矢面に立ち謝罪会見をするのはおかしい、世間の“お気持ち”の犠牲になっているという意見がある。その意味は理解できるけど、ちょっとおまち、と思う。なぜなら、TOKIOは、人の欲望や夢、要は、“お気持ち”そのもので存在が成立しているのだから。“お気持ち”の象徴化がアイドル、つまり偶像だ。

一糸みだれぬ固めた黒髪で、喪服のような黒ネクタイをしめ、絞られた身体にフィットしたフォーマルスーツを着こみ、どうらん(メイク)を塗って、独特の様式美の中でTOKIOは謝罪をし、記者会見をした。アイドルとして夢を裏切った許しが必要だったから。

世間の夢を裏切ったのは山口達也さん個人で、TOKIOの他のメンバーではない、というのは合理的には当たり前にその通り。けれど彼らは非合理なイメージという夢の世界で生きている。だから、イメージダウンをさけイメージ回復を図るために、事務所や代理店ではなく、“友情”“絆”という物語も売りにしているメンバーが矢面に立つことが、単純に商売的戦略になると判断されたのだと思う。
ジャニーズ事務所のこういう戦略は歪ですけどもね。そして、ボーイズラブのような友情、絆の物語の夢を見たい人の欲望にちょっぴりいつもわたしは複雑な気持ちになる。


TOKIOの謝罪記者会見は、ジャーナリズムの要素は一つにすぎす、最優先は、見せ方であり、記者会見はショーであり見世物だった。会見内容は“芸”の領域で評価すべきなのだけど、“芸”ではなく“人柄”だとみせることこそがあの謝罪会見での芸の真髄なので、混乱していた人が多いように思う。


中性的な少年の魅力に富んだ幼い少年たちは、ジャニーズ事務所でアイドルとなり、その魅力を事務所の方針で物語にされ演出され、人や世間に消費される。そしてやがて少年は青年になる。少年の魅力という資質でアイドル(偶像)になったものの、誰しも人は本来少年や青年ではなくなり、老いてゆく。それは動物的に自然なこと。けれど自然に白髪になり頭髪は薄くなったり、太ったりお腹がでたり逆に痩せすぎていたり、という一般的な中年壮年期の男性の見た目になれば、アイドルとして人に夢を与えることはできなくなる。
だからアイドルとして成功した青年は、青年のスタイルのまま年を重ね、自然に老いるということに抗い続けながら生きる。普通のおじさまになってしまえば、偶像崇拝の対象ではなくなり人間という動物としては楽になるけども、アイドルという職業は失格になる。


ジャニーズ事務所のもつ性質の、同性愛的な中性美少年愛と美青年保存の欲望と、世間の、美少年が育ってゆく過程を眺めて愛で続けていたいという欲望が交錯した結果と、社会の高齢化の帰結が、ジャニーズ系アイドルの高齢化なのだろう。
四十代と五十代の人口が多いので、単純にその世代に支持されている芸能人が国民的スターになりやすい。高齢層がますます増えた未来、七十代のアイドルグループがいるのかもしれない。

そんな現実はともかく、人の欲望の対象になり続けながら青年のまま生きるのは、よほどの適正がなければ疲弊するし病むだろうなと容易に推測できる。

タモリさんが昔、「芸能人は国民のおもちゃ」と仰ったと聞いたことがあるけれど、それが本当ならば、ショービズの世界で顔役をする芸人は、多額の報酬や承認欲求と特別な環境と引き換えに、おもちゃとして人権を明け渡さないとならないという覚悟と諦観をタモリさんは示したのだと思う。頭のよい人だから。芸能人は国民のおもちゃと、外部の人間が言ったら下品だし差別なんだけど、芸人本人には必要な矜持なのだと思う。TOKIOタモリさんも国民的スターだ。

自尊心や誇りの裏で抑制心も伴うのが矜持ならば、山口達也さんは、抑制心が欠落してしまった点でアウトなんだけども。本来一人の人間としては、社会的に相応の責任をとればやり直す機会は与えられるべきだ。
山口さんの起こした問題は、セクシャルと結びついた加害行為だったので、ファンはきっと夢を失いやすかったのだと思う。高齢アイドルとしては、被害にあわれた未成年という若年者を性的に眼差していただろうことも、山口さんの内面には年齢相応の成熟を求め信じているファンの夢を壊したのだと思う。そして、心あるファンの多くは、被害にあわれたという少女の痛みに自分を重ねたのだと思う。わたしも心が痛む。

そんな背景もあり、山口さんとTOKIOは、矜持に含まれる誇りや自尊心を削っているように見せる“芸”が必要になり、アイドルの宿命のなかで演じてみせた。偶像としての矜持において。


山口達也さんの不祥事にまつわるTOKIOのメンバーの謝罪会見を問題にしている人も多い。責任の主体がない人間が責任をとる形式を問題にしているのだけど、つきつめると、人の欲望(ファンだけではない)を肯定する消費社会信仰の自由の問題につきあたる。

“まなざし村”でおなじみのまなざし、だけれど、性的な眼差しの問題は存在し、時々グロテスクな実態をみせる。その眼差しの対象の問題は、男女などジェンダーはあまり関係ない。むろん生物の構造として、男性の眼差しが量としては多いのだろう。けれど、それに乗じて男性と女性に対立項をつくり、男性だけにそれがあるように偽装し、過激なことを主張するからまなざし村は論外になってしまう。けれどやはり性的な眼差しが時に残酷なのは間違いではないのだと思う。
現在の日本は、資本主義と自由を標榜する社会なので、性的な欲望の眼差しが犯罪やハラスメントでなければ自由であり、その眼差しを請け負い続けるアイドルが眼差され崇拝された果てに、人間としての尊厳や人権を喪失しているという現実があるのだと思う。偶像は人間ではないのか、オモチャなのか、社会は信仰を壊さないために、そこに向きあうのは苦手なようだ。


わたしはアイドルに興味がないのでこういう立場なのだけど、本気で夢をTOKIOに見てきて(夢を現実と考え、偶像を人格と捉えるのが夢)、特に金銭と時間と情熱を注いだ人は、怒る権利があると感じるでしょうし、TOKIOのふるまいを“芸”と見なさないからこそ夢が成立している。
人には夢や信仰や思想が必要だから、それ自体が特別に反社会的でもない限り、その内容を他者が干渉も責める必要もない。アイドルにまつわる趣向もそうで、信仰とはそういうものなのだ。他者から見れば、崇拝の対象者は、常時眼差され、ストーカーされているようなもの。アイドル趣味は悪いと言う自由はあるだろうけど、それ以上は言ってしまってはいけなくて、アイドルを崇拝したり信仰する自由はある。これはもちろん狭義の信仰ではない。
要は、よくわからない他者の信仰へも、最低限の敬意が必要なのだというお話。

誰が悪いというよりも、アイドル信仰、つまり偶像崇拝は、ただの世の中の一面なのだと思う。ジャニーズ事務所は偶像をつくるプロデュース能力と制度設計に長けているのだろう。信じさせる夢を見せて依存させる。人は信じるとか夢を託して依存する。それは、人が生きやすくなる側面もうむ、けれど、歪な側面もうむ。うらはら、うらにはおもて、それは世の常なのだから。


わたしは、山口達也さんも含むTOKIO全員が謝罪した際のファッションが面白いと思った。
まず、お辞儀をした際に、全員が髪一本揺れなかったことに感心した。つまりヘアスタイリングの徹底に感心したのだ。カチカチに固められ髪が揺れない状態で、しかも彼ら等身大の年代である中年感を出さないようにスタイリングされていた。あくまで青年の延命者としてあるために、お辞儀した際に強調される頭頂部が意識されていて、全員黒髪で、黒々とした豊かな髪で頭頂部は固められていた。松岡さんだけは短髪だったけれど、やはり髪が乱れることはなく、黒々としていた。頭頂部は中高年の人は特に年齢がでやすいからヘアメイクの方が意識したのだと思う。これがTOKIOのスタイリングなのかと思った。
そして、TOKIOは全員、黒ネクタイを締め、フォーマルスーツを美しく着こなし、メイクもきちんとほどこした統一したスタイルで、青年らしさと礼儀を表現した相応の対応をした。その彼らは芸人として達者だなぁと感心したし、様式美を演出した裏方のヘアメイクやイメージコントロールをしているチームもプロフェッショナルなのだなぁと思った。


だから、芸能人や著名人に対して自由に無節操になんでも放言してよいような振る舞いをする人ももう少し考えないとと思うけれど、お気持ちとらやらでTOKIOが謝罪においこまれたなんて主張する行為にも欺瞞を感じる。そんな単純な構造じゃないでしょ、と。


お話が少し変わるのだけども、山口達也さんもTOKIOの国分さんなど他の方も、「一人の男として」を記者会見で多用していた点に違和感を持った。女性だって犯罪は犯すべきではないし責任は伴うのだけど、男を社会責任として強調するのは、女は半人前であるという女性差別TOKIOがしているのかな?
おそらくそう単純なことではなく、彼らが性的魅力に基づく夢とイメージを売り物にしている偶像である自覚と矜持を持っているから、“男として”責任を感じているという性的アピールをしたのだと思う。TOKIOはプロ偶像なのだ。
そのTOKIO的価値観を好む好まないという自由はある。ここではその是非を問題にしたいのではない。

女性は性質上どうしても社会的に弱者になりがちなのだけど、時に社会にふみにじられながら、男性をふみにじってしまうこともある。TOKIOを崇めながらふみにじっているように。もちろん男性も女性をふみにじることはままある。 同性同士もそういう構造はあり、ジェンダーパラドックスになっている。

セクシャルハラスメントなどとは質が違うのだけど、人を偶像化し性的に崇拝や信仰することで、たくさんの夢を生み、たくさんの悦びを生み、市場を生み、そこからたくさんのゆがみがこぼれる。偶像はいつだって崇拝されながら高みにいるけど、だけどふみにじらている。今この瞬間もポロポロとゆがみがこぼれている。ポロポロは本当はずっと以前から見えているのに、TOKIOがまだ少年だったころからポロポロしていたはずなのに、人は見えないふりをして、ポロっという片鱗が不祥事というカタチになったら慌てたりする。
ポロポロ、ポロポロ、ずっとずっと夢を与える行為と偶像崇拝からこぼれてる。


ポロポロ、ポロポロ。