にかにかパラダイス

詩人、アーティストのni_kaが気の向くままにちぽちぽと。らららちぽちぽ。

叛乱論研のこと。 革命と父性

f:id:ni_ka:20180823164545j:plain御縁があって、数年前、叛乱論研(はんらんろんけん)という研究会に参加していた。正確には長崎叛乱論研究会(ながさきはんらんろんけんきゅうかい)という名の研究会で、長崎浩さんを中心に月に一度読書会をしていた。長崎浩さんは、1960年の安保運動で東大のどんな名前の団体か知らないのだけど、リーダーをしていた有名な元闘志だとほかの方から伺った。ある種カリスマと呼んでよい方で『叛乱論』など多数のご著作がある。ご存じない方はググってみてね。
長崎叛乱論研という研究会名だけども、長崎浩さんはご自分の名前を出そうとしたり、人の中心にいようとしたりするような方ではなかった。勉強や思考することにどこまでも真剣で、決して威張ったりせず、過去の話もこちらが聞かなければしなかったし、若輩者の私たちにも敬語を使って対等に議論してくださる凛とした方だった。それはやはり叛乱論研に参加していらした思想家で作家の笠井潔さんも同じだった。お二人は思想がどうというよりも、人としての佇まいがかっこよかった。長崎さんも笠井さんもお年は重ねているのだけど、立っても座っても姿勢がよくて胸を張って生きている感覚をいつもうけた。
長崎叛乱論研という長崎さんの名を冠した研究会名は、研究会を事実上立ち上げ、仕切っていらした某新聞記者さんか某出版社の編集者さんのどちらかがつけた名前なのだと思う。このお二人が研究会を熱心にまわしてくださっていたし、通常では立ち入れないような場所を研究会のためにいつも提供してくださり、また二回に一回ぐらいは読書する本の著者の方を招いてくださるなど大変尽力していらした。
……なんだけど、このお二人が叛乱論研で起きる数々の珍騒動の元凶でもあった。

長崎叛乱論研は、長崎浩さんのお名前がついているのだけれども、実際は笠井潔さんを慕っている昔の笠井さんの活動家仲間だったというおじいさまやおじさま、政治や社会問題に興味があり笠井さんを慕っている若者などが参加していた。メンバーの上の世代の方々は、昔だったらセクトだかなんだかの問題で殺し合いをしていたような関係で、研究会でご一緒するというのはある意味で信じられないことだとだという話だった。ど、どんな生き様なんだ……と思っていたけれど、そういう人たちもいるんだなぁと勉強になった。
研究会のメンバーは、私が参加していた当時は、私や当時20代後半の評論家さん、30代前半(20代だったかも)の評論家さん、30歳代前半の活動家さんが断然若く、平均年齢は高かった。某編集者さんや某新聞記者さんなんかは、大学生などもっと若い人を参加させたがっていたのだけれど、なかなかうまくいかずのちにオルグ珍騒動(?)も起こすことになるのだけれど、それはまた別のお話。

この研究会には、思想家の白井聡さんも参加していたのだけど、白井さんのご著書の『「物質」の蜂起をめざして ―レーニン、「力」の思想―』が課題の会で、長崎浩さんが白井さんのテクストやレーニン観について非常に厳しいご意見やご質問を示し、白井さんはしどろもどろになったりしたことがあった。白井さんは顔を長崎さんから背けながら、「それでも僕はレーニンのそういうところにも惹かれているんで……」と小さな声で仰っていたけれど応答しきれていなかった。長崎さんは強い眼差しで胸を張ったような姿勢で白井さんをみていた。私が意見や疑問を長崎さんに述べてもいつも長崎さんは丁寧だったし厳しいご意見は決して仰らなかった。優しいというのとは違う尊重があった。もちろん白井さんにもその尊重の姿勢は崩していなかったのだけど、長崎さんは白井聡さんのことを一人前の思想家として認めていらしたからこそ、白井さんに厳しいオブジェクションを投げたし返答を求め、白井さんと正面から対峙したのだと感じた。
けれど白井さんはそれからしばらく叛乱論研にいらっしゃらなくなった。みんなは「長崎さんにしばかれたからなぁ……」と言っていた。だけど笠井さんのご信念で、来ない人に来ることを強要したり無理に誘うようなことはなかったのでそのまま白井さんは叛乱論研とは距離をおいた。単にお忙しかったのかもしれない。

しばらくして、経産官僚で当時TPP反対の急先鋒として売り出していた中野剛志さんを新聞記者さんが研究会に招いてくださり、中野さんを囲んで中野さんのご著書の『TPP亡国論』 を課題に研究会をする回になったら、白井さんがひょっこり研究会にいらっしゃった。また当時内閣官房内閣審議官だった水野和夫さんをお呼びして水野さんのご著書『終わりなき危機 君はグローバリゼーションの真実を見たか』を読む会にも白井さんはいらっしゃった。それから頻繁にいらっしゃるようになり白井さんは叛乱論研に復帰なさった。

中野剛志さんがいらした研究会が終わったあとの打ち上げで、白井聡さんは中野剛志さんのお隣で目を輝かせて中野さんと会話していらしたし、水野和夫さんがいらした時には研究会の最中にも水野さんへ敬意や賛意を頻繁に示していらしたので、官僚的な立場の方に興味があるのだなぁとなんとなく思った。
水野さんは非常に紳士的で穏やかな方だった。中野さんは中野さんの論に疑問を呈したりすると、ふいっとふくれたようにそっぽを向いて足を組んだり、質問を遮って早口で強い調子で違う話しをはじめたり、話術が独特な方だなあと観察して思った。不利な質問には答えないで他の話題にすぐにうったり、仕草で不快感を示したり、元都知事だった猪瀬直樹さんの話術に少しにていた。ただ中野さんで印象深いのは、長崎さんにとても気を使っていらしたこと。へぇと思った。「長崎さんなら当然ご存知だと思うのですが」とか「長崎さんの前で言うのはあれですが」というような感じ。中野さんが長崎さんのご活動やご著書に興味をもっていたとはなんとなく思えないので、新聞記者さんから事前に長崎さんに関してレクチャーを受けていたのかなと想像する。笠井さんや他のメンバーには気をつかっている様子がなかった。いろいろ書いちゃったけど、中野さんも水野さんも、元左翼や新左翼ばかりの研究会によくいらしてくださったなあと思う。呼んでくださった新聞記者さんとの繋がりがあったからなのだけど、官僚としてはガチ左翼とガチ新左翼のたまりばになんかあまり出向きたくないよね、それなのに研究会にのぞんでくださったのはすごいことだなぁと思う。

白井さんのお話にもどろうっと。白井さんは前に長崎さんから「しばかれた」時とファッションが変わっていて垢抜けていた。髪型も服装も靴もたちふるまいも。前の素朴な学生風だった時の方が素敵だけどな、と私はちょっと思った。若い評論家さんは、「白井さんは萱野稔人さんと付きあいだしてファッションの影響をうけて、先端がとがった靴を履きだした」とこそっと言ったりしていたけど、白井さんの再度の研究会への参加をみんな歓迎していたように思った。

私は白井聡さんに関しては忘れられない場面がある。
研究会の打ち上げで8人ほどのメンバーで和風の居酒屋さんに行ったときのこと。畳の個室で白井聡さんが上座に座り、その脇に笠井潔さんと長崎浩さんが向かいあって座りお酒を飲んでいた。私は笠井さんの隣に座っていた。白井さんが上座だったのは、ただ単に個室に入った順番の問題で、白井さんが意図していたわけではないと思う。白井さんはどこかラフで、笠井さんや長崎さんを従えるような形で上座に悪気なく座るようなチャーミングな人なのだ。これは皮肉などではない。白井さんは明るくて誰に対しても真摯な方だった。笠井さんも長崎さんも上座だからどうこうなんてもちろん気にされる方ではなかったし。
打ち上げでお酒もすすみ話が盛り上がり、小休止で静かになった時間帯があった。その時、白井さんが脈絡なく急に両腕を天井方向にぐうっと伸ばして、万歳して背伸びするようなポーズで
「あーー、革命してええーーーー!」
とわりと大きな声で満面の笑みで言った。私はふきだしそうになったのだけど、というかふきだしてしまったのだけど、私以外の人は誰も何もリアクションをしなかった。若手評論家さんや編集者さんは白井さんたちとは少し離れたお席で別のお話でわいのわいの盛り上がっていたので気づいていなかった。白井さんのすぐそばでお酒を飲んだりたばこをふかしていらした長崎浩さんと笠井潔さんは、白井さんの言動、背伸びしながらの「あーー、革命してええーーーー!」は、間近なので絶対に見えているし聞こえているはずなのに、ガン無視をしていて見ざる聞かざる言わざるという感じで、静かにそのままお酒やタバコを嗜み続けていらした。

え、ちょっ、今、白井さんが「革命してーー!」って笑顔で万歳しながら言っているのだけど! ま、幻なの?…… と誰も白井さんにリアクションしない居酒屋さんの個室で、嗚呼、これがダウンダウンのリアル笑ってはいけないシリーズのワンシーンなのかもなぁとちょっと悟りながら、上機嫌の白井さんを横目に笑ってしまわないように下を向いて笑うのを堪えた。白井さんと笠井さんと長崎さんのその時の三人の様子がおかしくて愛らしさみたいな空気が滲んでいたから、今でもその場面を思い出すし好きなんだと思う。

白井さんは最近制限選挙に部分的に理解を示したり、ご自分と政治信念や投票行動が異なる人に「判断力のない人々(愚民)」というような言葉を用いて批判をされていて私は悲しく思う。また、「判断力がない人間に参政権を与えるのは不適切」というようなご主張も、自分、或いは自分たちは判断力が常にある特権的な人間だと思い込んでいなければ、できないはずだ。自分の思うように選挙結果がいかなかったからと言って、ある人々に判断力がないとレッテルを貼って参政権に制限をなんて言ってしまったら、それは差別でしかないし子供の思い上がりでしかない。それに異なる政治信念や立場や意見にもどこかでその人なりの理があるのかもしれないと謙虚でなければ、多様な人同士で尊重し合う社会は決して訪れない。

ほんとは白井さんは「あーー、革命してーーー!」って笠井さんと長崎さんという父性のような存在に聞こえるように言っていたように、革命ごっこがしたいだけで、そしてそんな自分を父に認めて欲しいだけなのかもな、とたいへん失礼ながらたまに考える。長崎さんに厳しく意見されたときもしかしたら父に否定されたような気がしたのかもしれない。笠井さんと長崎さんはおそらく本気でかつて革命を目指し人生をかけて活動をしていたから、白井さんの無邪気さには興味がなかったのかもしれないし、かといって笑い飛ばすような気持ちでもなかったのかもしれない。いつの時代にも革命への希求を、父親のような大きな先輩に聞いてもらいたかったり、革命ごっこをしたい人はきっといる。

*写真は叛乱論研に参加していたとき、笠井潔さんと。

(叛乱論研のお話しは書いた方がいいかな、もう書けるかな、傷が癒えてきたかな、かなかな、ってちょっぴり感じたから書いてみました。つづくかも。つづくかな。こんな局所的なお話、読みたい人いるんかよ……)

我が家には回覧板がまわってこないおはなし。

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我が家には回覧板が回ってこない 期待されない物件
 
これは先月桜を撮ったものです。一眼レフではなくスマホで撮った散り際の桜。夜景にはスマホは向いていないので、画質が悪すぎたりシャッタースピードの問題なんかで、ちょっと面白い効果がでていて好きな感じ。
機材の良し悪しだけじゃないのですよね、こればかりは。使用している一眼レフはWi-Fiがついていなくてとてつもなく不便なのでWi-Fi付きの一眼レフカメラが切実に欲しいです。残念な貧乏。

貧乏といえば。貧乏話ついでで桜とは無関係なのですが、‪ご近所でちびっ子が立派な一軒家のインターフォンに「回覧板です」と言っている前を通り過ぎて、この街に回覧板という物体が存在していることを知る。我が家というか我が集合住宅は、建物ごと回覧板をスルーされていることに気づく。恐らく町内会という存在そのものからもまるっとスルーされている。

子供の頃、母は町内会的ななにかにとても気を使い、父も町内会の餅つき会に参加したりしていたし、母は何度か町内会の役員なんかも引き受けていたような記憶。回覧板をお隣さんに持ってゆくお手伝いをよく母に頼まれたのだけど、人見知りだったからすごくつらいお手伝いだったな、とかとか。
‪母と弟に回覧板スルーのことを話したら、同じ都内でも母弟宅には現在でも回覧板がまわってきて、当然のごとく町内会のお仕事があり町内会費も支払いお祭りなどもお手伝いしているそうで、母はお祭りに寄付のようなこともしているという。町内会のお祭りか……お祭りが苦手なのでふるえるほど参加したくないと改めて思う。

思えば一人暮らしや二人暮らしして以来、要は親元から独立してから、一度たりとも私の住居には回覧板が回ってきたことがない。いつもご近所から町内会員として期待されない建物に居住していたらしい。そんな物件ばかりに住んだ自分にピンポイントのある種の才能を感じる。
‪不動産屋さんは「回覧板スルー物件」をアピールポイントとして書いて欲しい‬ぐらいだな。というか、『回覧板の回ってこない物件に住む方法』というブログでも書くかな、みたいな境地。

基本的に整ったインフラや清潔な環境や活気等の裏側には、地域の人々の知恵や労力があるのだから、町内会のような法的義務はない任意のコミュニティにも参加した方がよいのかもしれない。ただ、こちらからは頼んでもいないのに建築物ごと任意コミュニティから除外されている場合、もはや歓喜しかない。
ヤッホーじゆう! 少々自分勝手な考えなのは承知ですけども。

高級な家、車、お金、家族、地位などなど、あればあれで豊かで楽しい、けれど「持つ者」は煩わしいことも引き受けている。「持たざる者」は時には不便で大変、けれど煩わしいことから解放されているのかもしれない。町内会などといった苦手分野においては期待されないって楽だなあとしみじみ。ただ期待してほしい分野もあったりして、人間ってなんぎな生き物。
いろいろあるけど、人に恵まれていれば万歳です。 これからもご近所から期待されない物件にこそっとのんびり住み続けたいものですな。
桜の写真、もはや関係無さすぎる。

夢を与える TOKIOの「男として」というセリフ

らららちぽちぽ。


綿矢りささんの『夢を与える』という小説は、国民的スターの美少女アイドルの悲哀を描いていたちぽな、そういえば。


「夢を与える」

アイドル兼国民的スターとは、人のセクシャルな欲望をくみとり、それを“夢”として、人に与えることで職業が成立している。だから、当然人のを壊してしまったら、職業が成立しなくなる。

世間の“お気持ち”に添いすぎて、山口達也さん以外のTOKIOメンバーが、矢面に立ち謝罪会見をするのはおかしい、世間の“お気持ち”の犠牲になっているという意見がある。その意味は理解できるけど、ちょっとおまち、と思う。なぜなら、TOKIOは、人の欲望や夢、要は、“お気持ち”そのもので存在が成立しているのだから。“お気持ち”の象徴化がアイドル、つまり偶像だ。

一糸みだれぬ固めた黒髪で、喪服のような黒ネクタイをしめ、絞られた身体にフィットしたフォーマルスーツを着こみ、どうらん(メイク)を塗って、独特の様式美の中でTOKIOは謝罪をし、記者会見をした。アイドルとして夢を裏切った許しが必要だったから。

世間の夢を裏切ったのは山口達也さん個人で、TOKIOの他のメンバーではない、というのは合理的には当たり前にその通り。けれど彼らは非合理なイメージという夢の世界で生きている。だから、イメージダウンをさけイメージ回復を図るために、事務所や代理店ではなく、“友情”“絆”という物語も売りにしているメンバーが矢面に立つことが、単純に商売的戦略になると判断されたのだと思う。
ジャニーズ事務所のこういう戦略は歪ですけどもね。そして、ボーイズラブのような友情、絆の物語の夢を見たい人の欲望にちょっぴりいつもわたしは複雑な気持ちになる。


TOKIOの謝罪記者会見は、ジャーナリズムの要素は一つにすぎす、最優先は、見せ方であり、記者会見はショーであり見世物だった。会見内容は“芸”の領域で評価すべきなのだけど、“芸”ではなく“人柄”だとみせることこそがあの謝罪会見での芸の真髄なので、混乱していた人が多いように思う。


中性的な少年の魅力に富んだ幼い少年たちは、ジャニーズ事務所でアイドルとなり、その魅力を事務所の方針で物語にされ演出され、人や世間に消費される。そしてやがて少年は青年になる。少年の魅力という資質でアイドル(偶像)になったものの、誰しも人は本来少年や青年ではなくなり、老いてゆく。それは動物的に自然なこと。けれど自然に白髪になり頭髪は薄くなったり、太ったりお腹がでたり逆に痩せすぎていたり、という一般的な中年壮年期の男性の見た目になれば、アイドルとして人に夢を与えることはできなくなる。
だからアイドルとして成功した青年は、青年のスタイルのまま年を重ね、自然に老いるということに抗い続けながら生きる。普通のおじさまになってしまえば、偶像崇拝の対象ではなくなり人間という動物としては楽になるけども、アイドルという職業は失格になる。


ジャニーズ事務所のもつ性質の、同性愛的な中性美少年愛と美青年保存の欲望と、世間の、美少年が育ってゆく過程を眺めて愛で続けていたいという欲望が交錯した結果と、社会の高齢化の帰結が、ジャニーズ系アイドルの高齢化なのだろう。
四十代と五十代の人口が多いので、単純にその世代に支持されている芸能人が国民的スターになりやすい。高齢層がますます増えた未来、七十代のアイドルグループがいるのかもしれない。

そんな現実はともかく、人の欲望の対象になり続けながら青年のまま生きるのは、よほどの適正がなければ疲弊するし病むだろうなと容易に推測できる。

タモリさんが昔、「芸能人は国民のおもちゃ」と仰ったと聞いたことがあるけれど、それが本当ならば、ショービズの世界で顔役をする芸人は、多額の報酬や承認欲求と特別な環境と引き換えに、おもちゃとして人権を明け渡さないとならないという覚悟と諦観をタモリさんは示したのだと思う。頭のよい人だから。芸能人は国民のおもちゃと、外部の人間が言ったら下品だし差別なんだけど、芸人本人には必要な矜持なのだと思う。TOKIOタモリさんも国民的スターだ。

自尊心や誇りの裏で抑制心も伴うのが矜持ならば、山口達也さんは、抑制心が欠落してしまった点でアウトなんだけども。本来一人の人間としては、社会的に相応の責任をとればやり直す機会は与えられるべきだ。
山口さんの起こした問題は、セクシャルと結びついた加害行為だったので、ファンはきっと夢を失いやすかったのだと思う。高齢アイドルとしては、被害にあわれた未成年という若年者を性的に眼差していただろうことも、山口さんの内面には年齢相応の成熟を求め信じているファンの夢を壊したのだと思う。そして、心あるファンの多くは、被害にあわれたという少女の痛みに自分を重ねたのだと思う。わたしも心が痛む。

そんな背景もあり、山口さんとTOKIOは、矜持に含まれる誇りや自尊心を削っているように見せる“芸”が必要になり、アイドルの宿命のなかで演じてみせた。偶像としての矜持において。


山口達也さんの不祥事にまつわるTOKIOのメンバーの謝罪会見を問題にしている人も多い。責任の主体がない人間が責任をとる形式を問題にしているのだけど、つきつめると、人の欲望(ファンだけではない)を肯定する消費社会信仰の自由の問題につきあたる。

“まなざし村”でおなじみのまなざし、だけれど、性的な眼差しの問題は存在し、時々グロテスクな実態をみせる。その眼差しの対象の問題は、男女などジェンダーはあまり関係ない。むろん生物の構造として、男性の眼差しが量としては多いのだろう。けれど、それに乗じて男性と女性に対立項をつくり、男性だけにそれがあるように偽装し、過激なことを主張するからまなざし村は論外になってしまう。けれどやはり性的な眼差しが時に残酷なのは間違いではないのだと思う。
現在の日本は、資本主義と自由を標榜する社会なので、性的な欲望の眼差しが犯罪やハラスメントでなければ自由であり、その眼差しを請け負い続けるアイドルが眼差され崇拝された果てに、人間としての尊厳や人権を喪失しているという現実があるのだと思う。偶像は人間ではないのか、オモチャなのか、社会は信仰を壊さないために、そこに向きあうのは苦手なようだ。


わたしはアイドルに興味がないのでこういう立場なのだけど、本気で夢をTOKIOに見てきて(夢を現実と考え、偶像を人格と捉えるのが夢)、特に金銭と時間と情熱を注いだ人は、怒る権利があると感じるでしょうし、TOKIOのふるまいを“芸”と見なさないからこそ夢が成立している。
人には夢や信仰や思想が必要だから、それ自体が特別に反社会的でもない限り、その内容を他者が干渉も責める必要もない。アイドルにまつわる趣向もそうで、信仰とはそういうものなのだ。他者から見れば、崇拝の対象者は、常時眼差され、ストーカーされているようなもの。アイドル趣味は悪いと言う自由はあるだろうけど、それ以上は言ってしまってはいけなくて、アイドルを崇拝したり信仰する自由はある。これはもちろん狭義の信仰ではない。
要は、よくわからない他者の信仰へも、最低限の敬意が必要なのだというお話。

誰が悪いというよりも、アイドル信仰、つまり偶像崇拝は、ただの世の中の一面なのだと思う。ジャニーズ事務所は偶像をつくるプロデュース能力と制度設計に長けているのだろう。信じさせる夢を見せて依存させる。人は信じるとか夢を託して依存する。それは、人が生きやすくなる側面もうむ、けれど、歪な側面もうむ。うらはら、うらにはおもて、それは世の常なのだから。


わたしは、山口達也さんも含むTOKIO全員が謝罪した際のファッションが面白いと思った。
まず、お辞儀をした際に、全員が髪一本揺れなかったことに感心した。つまりヘアスタイリングの徹底に感心したのだ。カチカチに固められ髪が揺れない状態で、しかも彼ら等身大の年代である中年感を出さないようにスタイリングされていた。あくまで青年の延命者としてあるために、お辞儀した際に強調される頭頂部が意識されていて、全員黒髪で、黒々とした豊かな髪で頭頂部は固められていた。松岡さんだけは短髪だったけれど、やはり髪が乱れることはなく、黒々としていた。頭頂部は中高年の人は特に年齢がでやすいからヘアメイクの方が意識したのだと思う。これがTOKIOのスタイリングなのかと思った。
そして、TOKIOは全員、黒ネクタイを締め、フォーマルスーツを美しく着こなし、メイクもきちんとほどこした統一したスタイルで、青年らしさと礼儀を表現した相応の対応をした。その彼らは芸人として達者だなぁと感心したし、様式美を演出した裏方のヘアメイクやイメージコントロールをしているチームもプロフェッショナルなのだなぁと思った。


だから、芸能人や著名人に対して自由に無節操になんでも放言してよいような振る舞いをする人ももう少し考えないとと思うけれど、お気持ちとらやらでTOKIOが謝罪においこまれたなんて主張する行為にも欺瞞を感じる。そんな単純な構造じゃないでしょ、と。


お話が少し変わるのだけども、山口達也さんもTOKIOの国分さんなど他の方も、「一人の男として」を記者会見で多用していた点に違和感を持った。女性だって犯罪は犯すべきではないし責任は伴うのだけど、男を社会責任として強調するのは、女は半人前であるという女性差別TOKIOがしているのかな?
おそらくそう単純なことではなく、彼らが性的魅力に基づく夢とイメージを売り物にしている偶像である自覚と矜持を持っているから、“男として”責任を感じているという性的アピールをしたのだと思う。TOKIOはプロ偶像なのだ。
そのTOKIO的価値観を好む好まないという自由はある。ここではその是非を問題にしたいのではない。

女性は性質上どうしても社会的に弱者になりがちなのだけど、時に社会にふみにじられながら、男性をふみにじってしまうこともある。TOKIOを崇めながらふみにじっているように。もちろん男性も女性をふみにじることはままある。 同性同士もそういう構造はあり、ジェンダーパラドックスになっている。

セクシャルハラスメントなどとは質が違うのだけど、人を偶像化し性的に崇拝や信仰することで、たくさんの夢を生み、たくさんの悦びを生み、市場を生み、そこからたくさんのゆがみがこぼれる。偶像はいつだって崇拝されながら高みにいるけど、だけどふみにじらている。今この瞬間もポロポロとゆがみがこぼれている。ポロポロは本当はずっと以前から見えているのに、TOKIOがまだ少年だったころからポロポロしていたはずなのに、人は見えないふりをして、ポロっという片鱗が不祥事というカタチになったら慌てたりする。
ポロポロ、ポロポロ、ずっとずっと夢を与える行為と偶像崇拝からこぼれてる。


ポロポロ、ポロポロ。